阪神淡路大震災被災者が思う、3.11 東日本大震災


今日は2018年3月14日。

東日本大震災から7年と3日。

もう7年も経った。

まだ7年しか経っていない。

時の流れの感じ方は人それぞれだと思う。

正直、僕はもう7年、まだ7年、どちらの感覚もある。

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僕は阪神淡路大震災で被災して、当時住んでいた家を失った。
家を失った事でその当時までの思い出の物や写真などの多くを失った。
もちろん持ち出せた物や掘り出せた物も有り、今も手許に残る物が少しあります。

僕は当時、まだ学生だったのでそれで済んだが、うちの両親なんかはそれに加えて仕事も失った。
かなりのダメージだったと思う。
もし今、自分の身に同じ事が起こったら打ちひしがれるだけで立ち直るのにものすごい時間を必要とすると思う。

その点、うちの母親は切り替えが早かった。
いや、うちの母親に限らず、お母さん達のの立ち直りは早かった。
少し状況が落ち着いてくるとすぐに現実を受け入れ、今出来る事を行動に移した。
それに比べて父親、お父さん連中は立ち直るのに時間がかかっていた印象が強い。

『母は強し!』というところをまざまざと見せつけられた。
いざという時の女性の力は凄いです。
男として負けてられないと当時思いました。

もちろん忘れてしまった事も忘れたい事、思い出したくない事もありますが、当時の出来事や記憶はわりと鮮明に覚えています。
その反面、地元を離れてしまったからなのか、たまに地元に帰った時にはやっぱり懐かしく思います。
景色が変わっても面影はあります。

こんな風に当時の事を少し前の出来事のように捉える部分もあれば、ずいぶん昔の出来事として捉えている部分もあります。

阪神淡路大震災からだともう23年も経つんですね。

僕の人生において最も大きな出来事の一つである事は間違いないです。

東日本大震災もそれと同じくらい大きな出来事です。
もちろん熊本や北海道南西沖地震なども大きな出来事なんですが、東北は僕にとって特別でした。

東日本大震災の当日はたまたま関東に居ました。(かなり揺れて、ビビりました…)
この日もそうですが、今でも地震に遭遇するとしばらく動けなくなります。
あの怖さと言うか、全く太刀打ち出来ない無力感を潜在的に身体が覚えているのだと思います。

東日本大震災が特別なのは、昔、付き合った中に福島出身の女性や宮城出身の女性がいた(今はどうされているのかわからないですが…)のも多少ありますが、僕が阪神淡路大震災で被災した時に仙台の方にずいぶんお世話になったのです。
この方は阪神淡路大震災からしばらくしてボランティアで来てくれた方で、一カ月ほどだったと思うのですが色々な事に力を貸してくれました。
「テレビであの惨状を見てたら居ても立っても居られなくなった。でも自分には義援金を出せるほどの力はない。でも時間と身体はあるので何とか力になりたい。」と思って来たとおっしゃってました。
お名前と仙台から来たという事だけは知っていたのですが、帰られる時に、「落ち着いたらお礼がしたいから…」と住所や連絡先を伺ったのですが、「そういうつもりで来たのではない。」と教えてはもらえませんでした。(あの頃はまだ今のように携帯電話の普及した時代ではなかったのもあるかもしれません。)

東日本大震災ですぐに頭に浮かんだのはこの方の事でした。
もちろんこの方の安否は現在も知る術もありませんが、何か恩返しになればと思い、時間の許す限りお手伝いをしようと友人達を集めて車5台で救援物資を積み込んで宮城に向かいました。
僕は同じ様な経験をしたので被災地が何を必要としているかある程度覚えているので、だいぶ力になれるんじゃないかと勇んで向かったのですが、結果的に現地まで辿り着く事が出来ませんでした。

どうやっても行けそうもないほどの惨状だったのです。
地震だけならまだしも津波の凄まじさはもうエゲツないとしか言いようがなかったです。
近郊の自治体とかの人達だったの思うのですが、同じ様に足止め状態でした。
結局、物資を託し、帰らざるを得ない状況になりました。

帰った後は少額の募金など小さな事はやりながらも何をすれば良いのかわからない状態が続きました。
おそらくそんな人がたくさん居たのではないかと思います。

そんな中で、音楽やお笑いの方々の力の凄さもさる事ながら、スポーツの力の凄さは羨ましくもありました。

阪神淡路大震災の時のオリックス・ブルーウェーブ、東日本大震災では東北楽天ゴールデンイーグルスにフィギュア・スケートの羽生結弦くん。
その中でサッカーの東北復興支援チャリティマッチでの”キング・カズ”三浦知良選手のゴールは涙が出て震えが止まりませんでした。

その後、東北も地元の人の力と支援をする方の力でだいぶ復興に向かっているのだろうと思います。

もちろん僕の地元の神戸もすごく綺麗になり、かなり復興も進んだのだと思います。

では何をもってして復興のゴールとするのでしょうか?

《総評》

何をもってして復興のゴールとするかはとても難しいです。

当たり前の事ですが、全てを元通り、無かった事にするのは不可能です。

壊れた物を直す、倒壊した建物を直す、それは出来ると思います。
怪我も癒せると思います。
心もある程度癒せるかもしれません。

落ち着いてまた地元に戻る人も多いと思いますが、やはり戻りたくても戻れない人もまた多いです。

元通りにならないなら、少しでも以前の状態に近づける、もしくは以前よりもより良い状態にする事が復興するという事なのでしょうか?

人それぞれ思う事、考える事はあると思います。

僕はこれらの出来事を忘れない事が大事だと思います。

在り来たりな表現ですいません。

僕は時間と共に薄れてしまう危機意識が怖いと思っています。

僕も阪神淡路大震災の後、しばらくは危機意識を持っていたと思いますが、落ち着いた頃にはかなり薄れてしまっていました。

それから東日本大震災を近いところで体験し、現地近くまで行って目の当たりにした事で薄れていた危機意識が戻ってきました。
大きな災害があった日には追悼の内容が新聞やテレビなどメディアに取り上げられるのもキッカケになったと思います。

地震に限らず、集中豪雨などその対象となる出来事は世界各地で起こっています。

自分が被災する可能性は低いものではありません。

そうなった時のために多少の食料や防災用品は用意していますし、阪神淡路大震災の時のように就寝中に被災した時のために、すぐに動けるよう寝床の近い所に靴と懐中電灯を置いています。

何かあった時のため、対応する、復興する力は自分自身を含めた”人”ですから。

過去の教訓を教訓として活かさなければなりません。

ー 長々と書いたものを最後までお読み頂きありがとうございます。 ー

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